スポーツジムの売却価格を最大化する算定ガイド:M&A専門家が教える適正評価と成功の秘訣
スポーツジムの売却を検討する際、「適正価格で、できるだけ高く売りたい」と願うのは当然です。本記事では、M&A専門家の視点から、売却価格を最大化するための具体的な算定方法と成功の秘訣を解説します。
EBITDAマルチプル法などの基礎から、会員継続率といったジム特有の評価ポイントまで網羅。成功の鍵は、客観的な企業価値算定と戦略的な事前準備にあります。これを読めば、あなたのジムの価値を高め、有利な交渉を進めるための知識が身につきます。
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編集者の紹介
株式会社M&A PMI AGENT
代表取締役 日下部 興靖
上場企業のグループ会社の取締役を4社経験。M&A・PMI業務・経営再建業務などを10年経験し、多くの企業の業績改善を行ったM&A・PMIの専門家。3か月の経営支援にて期首予算比で売上1.8倍、利益5倍などの実績を持つ。
1. スポーツジムの売却価格を最大化するための算定基礎知識
スポーツジムの売却は、経営者にとって大きな決断であり、その成功は適正な売却価格の算定にかかっています。感覚的な価格設定ではなく、客観的な根拠に基づいた企業価値評価(バリュエーション)を行うことが、売却価格を最大化し、買収候補者との交渉を有利に進めるための第一歩です。
本章では、M&Aにおける価格算定の基本的な考え方から、スポーツジム業界特有の評価ポイントまで、専門家の視点で詳しく解説します。
M&Aにおける企業価値算定は、自社の価値を客観的に把握し、買収候補者にその魅力を論理的に伝えるための根幹となるプロセスです。
適正な評価額を算出することで、安売りを防ぎ、経営者が築き上げてきた事業の価値を正当に受け取ることが可能になります。また、M&Aのプロセスは一般的に「準備段階」「交渉段階」「最終契約段階」に分かれますが、価値算定は準備段階で行う最も重要な作業の一つであり、その後の交渉の土台となります。
M&Aの実務で最も頻繁に用いられる簡易的な企業価値算定方法が「EBITDAマルチプル法」です。これは、企業の「本業における収益力」を測る指標であるEBITDAに、業種や規模、成長性などを考慮した「倍率(マルチプル)」を乗じて企業価値を算出する手法です。
EBITDA(イービットディーエー)とは、「Earnings Before Interest, Taxes, Depreciation, and Amortization」の略で、日本語では「利払い前・税引き前・減価償却前利益」と訳されます。これは、金利水準や税率、減価償却の方法といった各社の財務戦略による影響を排除し、純粋な事業の収益力を比較するために用いられる指標です。簡易的には以下の式で計算されます。
EBITDA = 営業利益 + 減価償却費
このEBITDAに、類似する上場企業の株価や過去のM&A事例などから算出されるマルチプル(倍率)を掛け合わせることで、企業価値(事業価値)を概算します。スポーツジム業界のM&Aにおけるマルチプルは、一般的に3倍~7倍程度が目安とされますが、施設のブランド力、立地、会員基盤の安定性などによって大きく変動します。
企業価値(事業価値) = EBITDA × マルチプル(倍率)
例えば、年間のEBITDAが3,000万円のスポーツジムで、成長性などを考慮したマルチプルが5倍と評価された場合、企業価値は1億5,000万円と算定されます。最終的な株主が手にする売却価格(株式価値)は、この企業価値から純有利子負債(借入金-現預金)を差し引いて計算されるのが一般的です。
1.1.2 DCF法と純資産法の適用における注意点マルチプル法以外にも、企業価値を多角的に評価するために複数の算定方法が用いられます。代表的なものに「DCF法」と「純資産法」があります。
算定方法 | 概要 | メリット | 注意点・スポーツジムでの適用 |
---|---|---|---|
DCF法 (ディスカウンテッド・キャッシュフロー法) |
事業計画に基づき、将来生み出すフリーキャッシュフローを現在価値に割り引いて算出する。 | ・事業の将来性や成長性を評価に反映できる。 ・独自の強みや戦略を価格に織り込みやすい。 |
・事業計画の客観性や割引率の設定次第で評価額が大きく変動する。 ・スポーツジムでは、将来の会員数推移、設備投資計画の妥当性が厳しく問われる。 |
純資産法 (コストアプローチ) |
貸借対照表の純資産額を基に算出する。資産・負債を時価で評価し直す「時価純資産法」が一般的。 | ・客観的な指標に基づき、評価が明瞭。 ・清算価値の最低ラインとして参考になる。 |
・ブランド価値や顧客基盤といった無形資産(のれん)が評価されにくい。 ・収益性が高いジムでは価値が過小評価される傾向があり、赤字企業や資産保有型の企業で主に用いられる。 |
M&Aの交渉では、これらの算定方法を複数組み合わせ、それぞれの結果を比較検討することで、双方が納得できる妥当な価格レンジを探っていくことが重要です。
1.2 スポーツジム業界特有の評価ポイントと売却価格への影響スポーツジムの売却価格は、一般的な財務指標だけで決まるわけではありません。買い手は、事業の将来性や安定性を評価するために、業界特有の重要業績評価指標(KPI)を注視します。これらの指標を改善し、その価値を明確に提示することが、評価額の向上に直結します。
1.2.1 会員単価、継続率、LTVが売却価格に与える影響スポーツジムの事業価値の根幹をなすのは、安定した会員基盤です。特に以下の3つの指標は、収益の安定性と成長性を示すものとして極めて重要視されます。
- 会員単価 (ARPU: Average Revenue Per User)
会員一人当たりの平均月会費です。高価格帯のプランやオプションサービスが充実しており、高い会員単価を維持できているジムは、収益性が高いと評価されます。 - 会員継続率 (リテンションレート)
会員がどのくらいの期間、ジムの利用を続けているかを示す指標です。高い継続率は、顧客満足度の高さと安定した収益基盤の証明であり、M&Aにおける評価を大きく押し上げます。逆に退会率が高い場合は、事業の不安定要素と見なされ、評価額がディスカウントされる要因となります。 - LTV (Life Time Value / 顧客生涯価値)
一人の会員が入会してから退会するまでに、ジムにもたらす利益の総額です。「LTV = 平均顧客単価 × 粗利率 ÷ 解約率」などで算出され、この数値が高いほど、長期的に安定した収益が見込める優良な事業であると判断されます。LTVの高さは、将来のキャッシュフロー予測に直接的な影響を与え、DCF法などによる評価額を高める効果があります。
通常の会費収入以外の要素も、売却価格の算定に影響を与えます。
パーソナルトレーニング
高単価なパーソナルトレーニングの売上比率が高い場合、全体の収益性を押し上げる要因としてポジティブに評価されます。ただし、特定の人気トレーナーに売上が大きく依存している「属人性」の高い状態はリスクと見なされる可能性があります。トレーナーの育成システムや、組織としてサービス品質を担保する仕組みが整備されているかが評価の分かれ目となります。
フランチャイズ契約
フランチャイズに加盟しているジムの場合、その契約内容が評価に大きく影響します。ブランド力や本部の集客支援はプラス評価となる一方、ロイヤリティの支払いや契約期間の縛り、譲渡における本部の承諾要否などが精査されます。契約内容によっては、譲渡そのものが制限されるケースもあるため、事前の確認が不可欠です。
2. スポーツジムの売却価格を高めるための事前準備と戦略的算定
スポーツジムの売却価格は、単に現在の業績だけで決まるわけではありません。M&A(企業の合併・買収)のプロセスにおいては、買い手企業が将来性やリスクを精査する「デューデリジェンス」が必ず行われます。
このデューデリジェンスに備え、自社の価値を最大限に高めるための事前準備と戦略的なアピールが、希望する価格での売却を成功させる鍵となります。ここでは、売却価格を向上させるための具体的な準備と戦略について、詳細に解説します。
デューデリジェンス(Due Diligence、略してDD)とは、買収候補者が対象企業の価値やリスクを詳細に調査するプロセスです。このDDを円滑に進め、買い手に安心感と信頼感を与えることが、高値評価の第一歩です。
そのためには、財務情報だけでなく、事業運営に関わるあらゆる資料を整理し、いつでも提示できるように準備しておく必要があります。整理された資料は、経営の透明性を示す強力な証拠となります。
カテゴリ | 主な資料の例 | 準備のポイント |
---|---|---|
財務関連 | 決算書(過去3〜5期分)、試算表、総勘定元帳、固定資産台帳、借入金明細、リース契約書一覧 | 税理士や会計士と連携し、正確性と網羅性を確保する。不明瞭な勘定科目は内容を説明できるようにしておく。 |
法務関連 | 商業登記簿謄本、定款、株主名簿、許認可関連書類、店舗の賃貸借契約書、顧客との会員規約、従業員の雇用契約書 | 契約内容に不利な条項がないか、許認可の更新漏れがないかなどを弁護士と共に確認し、潜在的なリスクを洗い出す。 |
事業関連 | 事業計画書、組織図、従業員リスト、会員データ(会員数推移、属性、継続率など)、主要な仕入先・取引先リスト、マーケティング資料 | 事業の強みや成長性を客観的なデータで示す。特に会員の継続率やLTV(顧客生涯価値)は重要な評価指標となる。 |
企業価値算定、特にマルチプル法で用いられるEBITDA(利払前・税引前・減価償却前利益)は、事業の本源的な収益力を示す指標です。売却準備の段階でこのEBITDAを向上させる取り組みは、売却価格に直接的なプラスの影響を与えます。これは「磨き上げ(ブラッシュアップ)」と呼ばれ、M&Aを成功させる上で極めて重要です。
収益性改善の具体策:
- 高付加価値サービスの導入: パーソナルトレーニングの拡充、栄養指導プログラム、オンラインフィットネスなど、客単価を向上させる新サービスを導入する。
- 会員プランの見直し: 利用時間帯やサービス内容に応じた多様な料金プランを設定し、顧客ニーズをきめ細かく捉える。
- 物販の強化: プロテインやサプリメント、トレーニングウェアなど、関連商品の販売を強化し、収益源を多様化する。
コスト最適化の具体策:
- 固定費の削減: 店舗の賃料交渉、水道光熱費の契約プラン見直し、業務システムのクラウド化による管理コスト削減などを行う。
- 変動費の抑制: 広告宣伝費の費用対効果(ROAS)を分析し、効果の薄い広告を停止する。消耗品や備品の仕入れ先を見直し、相見積もりを取る。
- 業務効率化: 会員管理システムや予約システムを導入し、スタッフの事務作業を軽減することで、人件費を最適化する。
これらの取り組みは、単なる経費削減ではなく、筋肉質で収益性の高い事業体制を構築する活動であり、買い手にとって非常に魅力的なアピールポイントとなります。
2.1.2 法務・税務リスクの洗い出しと対応策M&Aの交渉過程で、予期せぬ法務・税務上の問題(潜在的リスク)が発覚すると、売却価格の大幅な減額や、最悪の場合は取引自体が破談になる可能性があります。事前に専門家と連携し、リスクを洗い出して対応策を講じておくことで、スムーズな交渉と適正価格での売却を実現できます。
主なチェックポイント:
- 労務リスク: 従業員の未払い残業代が発生していないか、社会保険の加入は適切か、雇用契約書に不備はないかなどを確認します。特にトレーナーとの業務委託契約が「偽装請負」と見なされるリスクがないか、弁護士や社会保険労務士に相談することが重要です。
- 契約リスク: 店舗の賃貸借契約書に、オーナーチェンジ(M&Aによる経営者交代)を制限する条項がないかを確認します。リース契約やフランチャイズ契約の内容も精査が必要です。
- 許認可・コンプライアンス: フィットネスクラブ運営に必要な許認可(該当する場合)が適切に維持されているか、景品表示法や特定商取引法に違反するような広告・勧誘を行っていないかを確認します。
- 税務リスク: 過去の税務申告に誤りや漏れがないか、税務調査で指摘を受けそうな点はないかを税理士と共に確認します。特に消費税の課税事業者の判定や簡易課税の適用などは注意が必要です。
これらのリスクを事前に特定し、解決または買い手に誠実に開示することで、後のトラブルを防ぎ、信頼関係を構築することができます。
2.2 買収候補者へのアピールポイントと売却価格算定戦略整備した資料を基に、自社の魅力を最大限に伝えるための戦略的なアピールが不可欠です。買い手は、過去の実績以上に「将来、どれだけの収益を生み出せるか」「自社事業とどのような相乗効果(シナジー)があるか」という視点で評価します。そのため、未来の成長ストーリーを具体的に示すことが、売却価格算定において有利に働きます。
2.2.1 競合優位性と将来性を示す事業計画の策定説得力のある事業計画書は、買い手に対して自社の将来性をアピールするための最も強力なツールです。単なる願望ではなく、データに基づいた実現可能性の高い計画を策定することが求められます。
事業計画に盛り込むべき要素:
- 独自の強み(競合優位性): 24時間営業、女性専用、特定のトレーニングメソッド特化(例:クロスフィット、ピラティス専門)など、他のジムとの明確な差別化要因を具体的に示します。また、経験豊富なトレーナー陣や、駅近などの好立地も大きな強みとなります。
- 市場環境と成長機会: 商圏内の人口動態、競合ジムの状況、健康志向の高まりといった外部環境を分析し、自社が今後どのように成長できるかの道筋(例:シニア層向けプログラムの強化、近隣エリアへの2号店出店計画など)を提示します。
- 具体的な成長戦略: 新規会員獲得のためのWebマーケティング戦略、既存会員の満足度を高めて退会率を低下させる施策、DX(デジタルトランスフォーメーション)による顧客体験の向上や運営効率化の計画などを具体的に記述します。
この事業計画は、買い手が買収後の経営計画を立てる際の基礎となり、その実現性が高ければ高いほど、企業価値評価も向上します。
2.2.2 顧客基盤とブランド価値の可視化による算定価値向上決算書などの財務諸表には直接現れない「無形資産」も、スポーツジムの価値を構成する重要な要素です。これらの価値を客観的なデータや事実で「可視化」し、アピールすることが算定価値の向上に繋がります。
可視化すべき無形資産:
- 安定した顧客基盤:
- 会員データ: 会員数だけでなく、平均継続期間、退会率、LTV(顧客生涯価値)といったKPIを算出して提示します。継続率が高くLTVが高い顧客基盤は、安定した収益が見込めるため高く評価されます。
- 会員属性: 年齢層、男女比、居住エリアなどのデータを分析し、特定の顧客層から強い支持を得ていることを示します。
- 確立されたブランド価値:
- 地域での認知度と評判: Googleマップの口コミ評価、SNSでのポジティブな言及、地域メディアでの掲載実績など、第三者からの客観的な評価をまとめます。
- 独自のコンセプト: 「初心者でも安心して通える」「結果にコミットする」といった独自のブランドコンセプトが顧客に浸透していることを、アンケート結果やお客様の声などで示します。
これらの無形資産は、買い手にとってゼロからブランドを構築するコストと時間を節約できるという大きなメリットになります。そのため、これらの価値を論理的に説明できれば、純資産や収益性だけでは測れない付加価値として、売却価格に上乗せすることが可能になります。
【関連】スポーツジムのPMI成功へ導く!M&A後のチェックポイント完全ガイド3. スポーツジム売却価格交渉における算定と成功の秘訣
スポーツジムの売却プロセスにおいて、算定された企業価値を最終的な売却価格へと昇華させるのが「交渉」のフェーズです。ここでは、単に提示された金額を受け入れるのではなく、戦略的な交渉を通じて売却価格の最大化を目指します。
買収側の評価ロジックを理解し、有利な条件を引き出すための交渉術と、クロージングに向けた最終調整の秘訣を、M&Aの専門家の視点から詳しく解説します。
交渉を有利に進めるためには、まず相手、すなわち買収候補者が何を考え、どのようにあなたのスポーツジムを評価しているのかを深く理解することが不可欠です。買収側の視点に立つことで、効果的なアピールポイントや交渉の落としどころが見えてきます。
3.1.1 買収目的とシナジー効果が売却価格に与える影響買収側が提示する価格は、あなたのジムが単独で持つ価値(スタンドアローン価値)だけで決まるわけではありません。買収側が自社の事業と統合することで生まれる「シナジー効果(相乗効果)」が、価格算定に大きく上乗せされる可能性があります。買収目的が明確で、シナジー効果が大きいほど、高値での売却が期待できます。
例えば、大手フィットネスクラブが特定のエリアへの進出を狙っている場合、既にその地域で顧客基盤を持つあなたのジムは非常に魅力的です。
また、パーソナルトレーニングに特化したジムを買収し、自社の総合フィットネスクラブのサービスラインナップを強化したいと考える企業もいるでしょう。買収側の目的を把握し、自社の強みがその目的達成にどう貢献できるかを具体的に示すことが、交渉の鍵となります。
買収側の目的 | 期待されるシナジー効果 | 売却価格への影響 |
---|---|---|
新規エリアへの進出 | ・出店コスト(物件取得、内装工事、初期マーケティング費用)の削減 ・スピーディーな事業展開の実現 ・地域における既存のブランド認知度の活用 |
買収側にとって初期投資を大幅に圧縮できるため、その分を売却価格に上乗せしてでも買収したいというインセンティブが働き、価格が上昇しやすくなります。 |
特定顧客層の獲得(例:富裕層、女性、シニア) | ・新規顧客獲得コストの削減 ・既存事業とのクロスセル(例:サプリメント販売、関連サービス提供) ・ターゲット層に特化したノウハウの獲得 |
特定の顧客セグメントに強いジムは、その顧客基盤自体が大きな価値となります。買収側がリーチできていない層を獲得できる場合、高く評価される傾向にあります。 |
事業規模の拡大による効率化 | ・本部機能(経理、人事、マーケティング)の統合によるコスト削減 ・トレーニング機器や備品の一括購入による仕入れコスト削減 ・ITシステムの統合による運営効率の向上 |
スケールメリットによるコスト削減効果は、買収後のEBITDA向上に直結します。この将来的な収益改善分が、売却価格に反映される可能性があります。 |
スポーツジムの売却価格を最大化するための最も効果的な戦略の一つが、複数の買収候補者による「競争入札(オークション方式)」を活用することです。特定の1社とのみ交渉を進める相対交渉では、相手のペースで話が進み、買い叩かれるリスクが常に伴います。
M&A仲介会社やアドバイザーを通じて複数の候補先に同時にアプローチし、意向表明書(LOI)を提出してもらうことで、健全な競争環境が生まれます。競争原理が働くことで、各社は他社よりも良い条件を提示しようと努力します。これにより、以下のようなメリットが期待できます。
- 価格の引き上げ:最も基本的な効果です。競争により、当初の想定を上回る価格が提示される可能性が高まります。
- 有利な条件の獲得:売却価格だけでなく、従業員の雇用維持、ブランド名の存続、オーナーの円滑な引退に向けた条件など、価格以外の面でも有利な条件を引き出しやすくなります。
- 交渉力の強化:複数の選択肢を持つことで、売り手は心理的に優位な立場で交渉に臨むことができます。
競争入札を成功させるためには、事前に買収候補者となりうる企業リストを幅広く作成し、それぞれの企業が関心を持つであろう自社の魅力を整理しておくことが重要です。このプロセスは専門的な知見を要するため、経験豊富なM&A専門家と連携して進めるのが一般的です。
3.2 クロージングに向けた条件調整と最終算定基本的な売却価格(算定額)に合意した後も、交渉は終わりではありません。クロージング(取引の最終的な実行)に向けて、最終的な手取り額に大きく影響する重要な条件を調整していく必要があります。この段階での交渉が、実質的な売却の成功を左右すると言っても過言ではありません。
3.2.1 アーンアウト条項や表明保証の交渉価格交渉が難航する際や、将来の成長性を価格に反映させたい場合に用いられるのが「アーンアウト条項」です。これは、ジムの売却後、一定期間内にあらかじめ設定した業績目標(例:会員数の維持・増加、売上目標の達成など)をクリアした場合に、売り手が追加の対価を受け取れるという契約条項です。
一方で、「表明保証」は、売り手が買い手に対して、開示した財務情報や法務情報などが真実かつ正確であることを保証するものです。
万が一、表明保証した内容に誤りがあり、買い手に損害が生じた場合、売り手は損害賠償責任を負う可能性があります。このリスクを軽減するため、補償上限額や期間を設定したり、表明保証保険(R&W保険)を活用したりといった交渉が行われます。
条項 | 概要 | 売り手の交渉ポイント |
---|---|---|
アーンアウト条項 | 売却後の業績目標達成に応じて、追加の対価が支払われる仕組み。売り手と買い手の希望価格に乖離がある場合に有効。 | ・達成可能で、かつ客観的に測定可能な指標(KPI)を設定する。 ・目標達成の阻害要因となりうる買収後の経営方針について、一定の制約を設ける。 ・支払条件や期間を明確にする。 |
表明保証 | 売り手が事業に関する情報(財務、法務、税務など)が真実かつ正確であることを保証する条項。違反時には損害賠償責任を負う。 | ・保証する範囲を可能な限り限定する。 ・損害賠償請求ができる期間や上限額(キャップ)を設定する。 ・「売り手の知る限りにおいて」といった知識限定の文言を盛り込む。 ・表明保証保険の利用を検討・提案する。 |
全ての交渉内容を盛り込み、法的な拘束力を持つ文書が「最終契約書」です。スポーツジムの売却が事業譲渡スキームで行われる場合は「事業譲渡契約書(APA: Asset Purchase Agreement)」、株式譲渡スキームの場合は「株式譲渡契約書(SPA: Stock Purchase Agreement)」が締結されます。
この契約書は非常に専門的かつ複雑な内容を含むため、必ず弁護士やM&Aアドバイザーといった専門家と共に、一言一句精査する必要があります。特に以下の項目は、最終的な算定額や将来のリスクに直結するため、注意深く確認しましょう。
- 譲渡対象資産・負債の範囲:どのトレーニング機器、どの賃貸借契約、どの従業員が譲渡対象に含まれるのか、明確にリスト化されているか。
- 譲渡価格と支払条件:最終的な売却価格、支払日、支払方法(一括または分割など)が合意通りに記載されているか。
- クロージングの前提条件:取引実行の前に満たされるべき条件(例:重要な取引先からの同意取得など)が定められています。
- 競業避止義務:売却後、オーナーが一定期間、同一地域で同種の事業を行うことを禁じる条項。その範囲(地域、期間、業務内容)が妥当か確認が必要です。
- 秘密保持義務:交渉過程で知り得た互いの情報を、第三者に漏洩しないことを定める条項。
最終契約書への調印をもって、売却価格と諸条件が法的に確定します。この重要な文書の確認を怠ると、後々予期せぬトラブルに発展する可能性があるため、最後まで慎重に進めることが成功の秘訣です。
【関連】事業承継に悩むスポーツジム経営者へ|M&Aで実現するスムーズな後継者への引継ぎ4. スポーツジム売却後の算定と経営者の次なるステップ
スポーツジムの売却は、経営者にとって一つの大きなゴールであると同時に、新たな人生のスタート地点でもあります。M&Aの成功によって得られた大きな対価と貴重な経験を、次にどう活かしていくのか。
ここでは、売却益を最大化するための税務戦略から、その後のキャリアプランまで、経営者が踏み出すべき次なるステップを具体的に解説します。売却というゴールテープを切った後の未来を、より豊かにするための羅針盤としてご活用ください。
M&Aによって得られる売却益は、その全額が手元に残るわけではありません。課される税金をいかにコントロールするかは、最終的な手残りを最大化する上で極めて重要な要素です。
M&Aのスキーム(手法)によって税金の種類や税率が大きく異なるため、売却プロセスの初期段階から税務の知識を深め、専門家と共に最適な戦略を練ることが成功の鍵となります。
スポーツジムのM&Aで主に用いられる「事業譲渡」と「株式譲渡」では、納税義務者や課税対象、税率が根本的に異なります。一般的に、オーナー経営者の手残りを最大化しやすいのは株式譲渡と言われていますが、それぞれの特徴を正確に理解しておく必要があります。
以下の表は、両スキームの税務上の主な違いをまとめたものです。
項目 | 株式譲渡の場合 | 事業譲渡の場合 |
---|---|---|
納税義務者 | 株主(オーナー経営者個人) | 法人(スポーツジムを運営する会社) |
課税対象 | 株式の譲渡益 (売却価格 − 株式取得費 − 譲渡費用) |
事業の譲渡益 (譲渡資産の時価 − 譲渡資産の簿価) |
主な税金 | 譲渡所得税(申告分離課税) ・所得税 15% ・住民税 5% ・復興特別所得税 0.315% 合計:約20.315% |
法人税等(法人実効税率) 合計:約30%〜34% ※法人の利益全体に対して課税 |
消費税 | 非課税 | 課税対象資産(トレーニングマシン、建物など)に対して課税される |
資金の受取 | オーナー経営者個人が直接受け取る | 法人が受け取る ※個人が受け取るには役員報酬や配当等の手続きが必要となり、そこでも所得税等が課税される(二重課税のリスク) |
特徴 | 手続きが比較的簡便で、オーナー個人の税負担を抑えやすい。 | 特定の事業や資産のみを売却したい場合に適しているが、税負担が重くなる傾向がある。 |
このように、株式譲渡はオーナー個人の譲渡所得として約20%の税率で完結する一方、事業譲渡では法人に約30%超の法人税が課された上、その資金を個人に移す際にさらに課税される可能性があります。
また、役員退職金として受け取ることで税負担を軽減する「役員退職慰労金制度」の活用も有効な選択肢の一つです。ただし、最適なスキームは企業の状況やオーナーの意向によって異なるため、必ずM&Aに精通した税理士などの専門家に相談し、シミュレーションを行うことが不可欠です。
無事に売却を終え、大きなキャッシュを手にした経営者にとって、その資金をいかに管理し、運用していくかは次の重要なテーマです。まずは焦らず、安全な金融資産(普通預金や定期預金)に置き、冷静に自身のライフプランと向き合う時間を設けることが賢明です。
その上で、中長期的な視点での資産活用を検討します。主な選択肢は以下の通りです。
- 資産管理会社の設立
個人の資産を法人に移して管理・運用する手法です。所得の分散による節税効果や、将来的な相続対策として有効な場合があります。不動産投資や株式投資などを法人格で行うことで、経費計上の範囲が広がるメリットもあります。 - プライベートバンクの活用
数億円以上の金融資産を持つ富裕層を対象とした専門サービスです。専任の担当者が付き、資産運用だけでなく、事業承継や不動産、相続対策まで総合的なコンサルティングを受けられます。オーダーメイドの運用戦略を提案してくれるため、多忙な経営者にとって心強いパートナーとなり得ます。 - ポートフォリオの構築
「卵は一つのカゴに盛るな」という格言の通り、国内外の株式、債券、不動産(REIT含む)、投資信託など、リスク許容度に応じて資産を分散させることが基本です。安定的なインカムゲイン(配当や家賃収入)を狙うのか、将来的なキャピタルゲイン(値上がり益)を重視するのか、目的を明確にしてポートフォリオを組みましょう。
ハッピーリタイアメントを目指すのか、あるいは次の事業への原資とするのか。ご自身の人生設計に合わせて、ファイナンシャルプランナーや税理士といった専門家のアドバイスを受けながら、最適な資産運用計画を策定することが重要です。
4.2 成功した経営者の次なる挑戦とM&Aの経験スポーツジムの売却は、単に金銭的なリターンを得るだけではありません。事業を成長させ、M&Aを成功させたという一連のプロセスは、他では得られない極めて価値の高い経験です。この経験を元手に、多くの経営者が新たなステージで輝かしいキャリアを築いています。
4.2.1 新規事業への投資とセカンドキャリア一度経営の最前線から退いた後、再び情熱を傾けられる対象を見つけ、新たな挑戦を始める経営者は少なくありません。
- シリアルアントレプレナー(連続起業家)としての再挑戦
スポーツジム経営で培ったノウハウや人脈、そしてM&Aで得た資金を元手に、新たな事業を立ち上げる道です。一度M&Aによる出口戦略を経験しているため、次の事業では創業時から売却やIPOを視野に入れた戦略的な経営が可能になります。 - エンジェル投資家としての活動
有望なスタートアップや若い起業家に対し、資金を提供するだけでなく、自身の経営経験を元にしたメンタリングを行う役割です。未来の産業を育てる社会貢献的な側面と、投資家としてのリターンを両立できる魅力的な選択肢と言えます。 - 全く新しい分野への挑戦
経営とは異なる分野、例えば趣味を極めたり、NPO法人を立ち上げて社会貢献活動に専念したりと、悠々自適なリタイア生活だけではない、アクティブなセカンドキャリアを歩むことも可能です。
M&Aのプロセスは複雑で、多くの経営者が不安や孤独を感じるものです。その道を先に歩んだ「経験者」としてのアドバイスは、これからM&Aに臨む経営者にとって何より心強いサポートとなります。
- M&Aアドバイザーやコンサルタントへの転身
M&A仲介会社やコンサルティングファームに所属、あるいは独立して、売り手側の経営者に寄り添った支援を行います。企業価値評価の算定、買い手候補との交渉、契約手続きといった実務はもちろんのこと、経営者としての心情を理解した上での精神的なサポートは、経験者ならではの付加価値です。 - 企業の顧問や社外取締役への就任
特に成長段階にある企業や、同業のスポーツジム運営会社などから、経営の助言役として迎えられるケースです。現場から一歩引いた客観的な視点で、事業戦略や組織運営に関する的確なアドバイスを提供し、企業の成長に貢献します。
スポーツジムの売却は、経営者人生の集大成であると同時に、そこで得た資産と経験を社会や次世代に還元していく新たなキャリアの始まりでもあります。売却後のプランを明確に描くことが、M&Aの成功を真の成功へと昇華させる最後の鍵となるのです。
【関連】パーソナルトレーニングジム業界のM&A動向を解説!成功事例と失敗事例から学ぶ5. まとめ
スポーツジムの売却価格は、EBITDAマルチプル法などの算定式だけで決まるものではありません。会員の継続率やLTV、ブランド価値といった非財務的要素が企業価値を大きく左右するため、これらを可視化し、戦略的に高める事前準備が不可欠です。
本記事で解説した通り、収益性を改善し、将来性を示す事業計画を策定することで、算定される評価額は大きく向上します。なぜなら、買い手は現在の収益力だけでなく、将来の成長ポテンシャルとシナジー効果を重視して価格を決定するからです。
M&Aの専門家と連携し、複数の買収候補者と交渉することで競争環境を生み出すことが、最終的な売却価格を最大化し、経営者の次なる成功へと繋がる最善の道筋となるでしょう。